人生の目的には完成があるところが生きがいと異なる点(2)

Posted in 未分類  by: まみ
11月 24th, 2011

人生の目的と生きがいの違いを、今回も学びたいと思います。

今日、「世界の光」と称賛される親鸞聖人。その90年の教えを一言で言うと、「平生業成(へいぜいごうじょう)」です。

「平生業成」とは、親鸞聖人のすべてを漢字4字で表した、いわば一枚看板とされている言葉です。

親鸞聖人のみ教えを知るうえで、大変重要な言葉なのです。

意味はこうです。

「平生」とは「現在」のことで、生きている時のこと。

人生の目的とは、すなわち人生の大事業でありますから、これを「業」という字で表し、完成の「成」と合わせて「業成」といわれます。

ですから「平生業成」とは、まさしく、“人生の目的が、現在に完成する”ということなのです。

親鸞聖人の特色が「平生業成」といわれるのは、親鸞聖人ほど「人生の目的」と、その「完成」のあることを強調された方はなかったからです。

「人生の目的が、生きている現在に完成する」

こう聞きますと、

「え!?人生に目的がある、完成があるって 」。

ほとんどの人は驚くのではないでしょうか。無理もありません。

“人生に目的や、完成などあるはずがない”

これが常識となっているからです。

学問や芸術、科学、医学、囲碁や将棋、剣道、柔道、書道、茶道、華道などは、どこまで究めても、卒業もなければ完成もない道、「死ぬまで求道」といわれます。

江戸初期の剣豪・宮本武蔵は、幼少のころから武術の才能に優れ、13歳で有馬喜兵衛との決戦に勝利して以来、諸国を巡って剣の道一筋に錬磨し、29歳で佐々木小次郎を巌流島に破るまで、60数度の決闘に、ただの一度も、敗れたことがなかったといわれます。

しかし武蔵は晩年、自らの剣法の神髄を残した『五輪書』に、自分の剣は、まだまだ未熟であると記しているのです。有名な「千日の稽古を鍛とし万日の稽古を練とす」の一節も、終わりのない武の道をひたむきに求めた、彼の心境ではないでしょうか。

日本映画を知る人で、監督・黒沢明の名を知らない人はありません。

国内外の映画賞を総なめにした「世界のクロサワ」は、「スター・ウォーズ」監督のJ・ルーカス、「E.T.」のS・スピルバーグらが師と仰ぎ、作品は海外でも模倣されるほどでした。その彼が平成2年3月、米アカデミー賞・名誉賞を受賞した時の言葉です。

「この賞に値するかどうか、少し心配です。なぜなら私はまだ映画がよく分かっていないからです」

黒沢監督にして「映画が分かっていない」の言は、完成なき道を語るに十分でしょう。また彼は、こうも漏らしています。

「あと5本、映画を撮らないと、僕は死に切れない」

カンヌ国際映画祭のグランプリ受賞作「影武者」撮影中のことです。その後、撮影した映画は4本。88年の生涯、30本の作品を残してなお、満足はなかった。

「死に切れない」の無念に、芸術の本質を見る思いがします。

完成のないのは、これらの道だけではないでしょう。学問やスポーツも、皆円満成就というゴールはありません。

これに対して、完成があるのが人生の目的なのです。

人生の目的には完成があるところが生きがいと異なる点(1)

Posted in 生きがいと人生の目的  by: まみ
9月 27th, 2011

生きる目的がハッキリすれば、心から充実した人生が開かれます。
では、真の「人生の目的」とは何でしょうか?

生きがいを人生の目的と誤解する人が多い中で、親鸞聖人は、「人生の目的には、完成がある」と、生きがいとの決定的な違いを明確に教えておられます。

「生涯学習」という言葉をしばしば耳に致します。

これは、より豊かな人生を送るため、生きがいを求め、生涯を通じて行う学習をいいます。
学習内容は、資格取得、語学、「生き方講座」やスポーツなど、多種多様です。

この生涯学習に、幅広い年齢層から注目が集まっています。
実際に生涯学習に取り組んでいる人たちの声を聞いてみましょう。

「自分の人生を楽しむため、充実した人生を送るために、自分に投資する学習だと私は思っています」
(38歳・女性)

「自分の人間性を築き上げるもの。仕事を離れた時に、自分自身の仕事以外の喜びを得ることができるもの」
(55歳・男性)

これらの人々に限らず、皆それぞれ、輝く人生を築こうと、新たな生きがい、価値観を模索しているようです。

“残された人生を、もっと充実させたい。それには、今までになかった何かを……”

そんな思いで、生きる指針、生きがいを渇望する声は、全世代に満ちています。

特に昨今話題になるのは、定年期を迎えている「団塊の世代」です。

戦後の高度成長期、息せき切って社会に出た人たちの多くが、大学教育を受けずにいました。

会社のため、家族のため、仕事仕事と生きてきたこの世代の多くが、これからは「自分のため」、じっくりと学びたい、というのです。

ところが、いざ「何をしようか」となると、はたと考え込んでしまうようです。

確かに、先に挙げた「生涯学習」でも、面白そうだな、やってみたいな、と思えるものは、たくさんあります。しかし今、本当になさねばならないことは何でしょうか。

日本人で初めてノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進氏は、評論家・立花隆氏との対談の中で、こう言っています。

「一人の科学者の一生の研究時間なんてごく限られている。研究テーマなんてごまんとある。ちょっと面白いなという程度でテーマを選んでたら、本当に大切なことをやるひまがないうちに一生が終ってしまうんですよ。だから、自分はこれが本当に重要なことだと思う、これなら一生続けても悔いはないと思うことが見つかるまで研究をはじめるなといってるんです」
(立花隆・利根川進著『精神と物質』)

“ちょっと面白いなという程度でテーマを選んでたら、本当に大切なことをやるひまがないうちに一生が終わってしまう”

これは、科学者だけのことではないでしょう。多くのことを学ぶのも大事ですが、悔いなき人生を謳歌するためには、最も大切なことを知らねばなりません。

限られた一生の中で、今、何をすべきか。

それは、「何のための人生か」「生きる目的は何か」を、正しく知ることではないでしょうか。
その「人生の目的」を明らかに教えられた方が、親鸞聖人なのです。

人生の目的と生きがいの違いについて、次回も続けましょう。

生きがいではない生きる目的とは?

Posted in 生きがいと人生の目的  by: まみ
8月 25th, 2011

私たちが生きていく上で、生きがいは大切ですが、それは人生の目的とはなりえないことを、前回、お話ししました。

人生の目的とは、生まれてきたのはこれ一つ、といえるものですが、生きがいは、その時その時、変化するものですし、その人の価値観が変わってしまえば、生きがいも変わります。生まれてきたのはこれ一つ、といえるものは、生涯を通じて変わらないもので、すべての人に共通するものです。

「そんなものなんてないよ」と言うことは簡単ですが、本当にあるのか、それともないのか、自分自身で確かめようとすれば、これは大変なことです。

親鸞聖人といわれる方は、人生の目的を明示された方である、と親鸞会の人に教えてもらいました。
これはすごいことです。そこで、どのように明示されているのか、尋ねてみたところ、「平生業成」という言葉を教えて頂きました。

「平生業成」は、「へいぜいごうじょう」というように、少し変わった読み方をする四字熟語です。
親鸞聖人は、90歳まで長生きされた方で、その90年間の教えをひと言で表した言葉が平生業成です。

平生とは、生きているときのことですから、この人生のことですね。
業というのは、「ごう」という読み方をしますが、「人生の大事業」を表しています。これが「人生の目的」のことです。人間に何のために生まれてきたのか、生きているのか、生きねばならないのか、ということです。
成とは、完成する、達成する、ということです。

だから、「平生業成」とは、人生には、これ一つ、果たさなければならないという大事な目的がある、それは現在、完成できる、だから早く完成しなさいよ、という親鸞聖人の教えをひと言で表された言葉だということでした。

仏教には、2600年経っても変わらない人生の目的を明らかにされている教えだということなんですね。
生きがいとはまったく異なる人生の目的を、どのように教えられているのか、さらに続けましょう。

生きがいの熱狂も冷める

Posted in 生きがいとは  by: まみ
7月 25th, 2011

「生きがいを見つけよう」というフレーズをしばしば耳にします。

生きがいは大切です。生きがいがなければ、生きていけないでしょう。
生きがいの喪失とともに、人は元気を失くし、力を失っていきます。

退職後、生きがいを見つけられず、満たされない思いを抱いている中高年の方は少なくありません。
「どう生きていけば良いのだろう」
と、ため息をつく声が聞こえてきそうです。

そうなると、何を探すのでしょうか。
新しい趣味、第二の仕事、夫婦で旅行など、いろいろ始めてみようとしたり、これまで出来なかったことにチャレンジしてみたりする方も多いでしょう。

ただ、それらのことも、ほんの一時しのぎに過ぎません。
いつも趣味をしているわけにもいきませんし、第二の仕事と言っても、そのための人生ではありません。
旅行も、たまの楽しみとしては良いですが、毎日、旅行することも出来ません。

私たちの人生は、生きがいを楽しむためにあるのではありません。
それでは、あまりに虚しすぎるでしょう。

やがて必ず死んでいかねばならない人生、死ぬまでに絶対に果たしておかねばならない一大事を知らずに過ごしていませんか?

生きがいは、飽くまでこれからを生きていくための手段の一つであって、生きる目的ではありません。
目的を知らないまま、どれだけ元気に明るく旅をしようとしても、気持ちは虚しくなるだけ。

目的がハッキリしてこそ、手段は輝きます。意味があるものになるのです。
では、私たちが生きていく目的は何でしょうか?

それを明らかに教えられたものが仏教なのだよ、と親鸞会で仏教を学ぶ知人に教えてもらいましたので、それについては、次に書きたいな、と思います。

生きがいは人生の目的とはなりえない

Posted in 生きがいと人生の目的  by: まみ
5月 1st, 2011

生きがいは大切なんですが、生きがいは人生の目的とはなりえないことを知りました。

生きがいには、やり遂げる、ということがありませんから、ゴールがないんです。
どこどこまで行っても、終わりがない。
自分で、「まぁ、この辺だろう」と区切りをつけるしかない。
それにしたって、{やっぱりもうちょっとがんばっておけば良かったかな?」と思うこともあるから、絶対にこれで満足というところはない。

生きがいは、明日を生きる活力とはなっても、真に人生に満足をもたらすものではありえない。
明日も生きていられるのが前提で、初めて喜べるものが生きがいの特徴。

これから死んでいく人にとって、生きがいはもはや喜びとはなりえないのです。
死を忘れていられる間は、生きがいも光を放つでしょうが、死を前にした時、そのすべての輝きを失います。

人生の目的とは、たとえ死を前にしたとしても、変わらないものでなければなりません。
死によって崩れるものは、人生の目的とはなりえないのです。

「そんなのあるか?」

という声が聞こえてきそうですが、なければ、生きる意味なんてない、と結論付けられるだけです。
人生はむなしいものとなるだけでしょう。

もちろん、あるんです。
なかったら、生きてる意味がないじゃないですか。

生きがいではない人生の目的とは何か、ぜひ知りたいところですね。

生きがいと人生の目的との違い

Posted in 生きがいと人生の目的  by: まみ
1月 27th, 2011

生きがいと人生の目的は異なります。

そのことを、浄土真宗の教えを忠実に話してくれる親鸞会で学びました。

生きがいは、どこまでいってもキリがありません。

完成ということがないからです。

ところが、人生の目的には完成があるのです!

生きがいは、通過駅

Posted in 生きがいいろいろ  by: まみ
8月 6th, 2010

「生きがいが見出せない」そんな言葉をしばしば耳にします。

これにも段階があるようです。

大きく分けると、最初から何も生きがいが見つからない人と、
生きがいにしていたことを成し遂げて、次にどうしたらいいか
分からなくなってしまった人とがると思います。
今日は、後者、

「生きがいをもっていたけど、成し遂げてしまって、
 次どうしていいか分からない」

という人について書いてみたいと思います。

例えば、

・演奏会で優勝する
・テニスの県大会で優勝する
・英検1級に合格する
・大学に合格する
・弁護士になる

などなど、それぞれの生きがいをもって(目標をたてて)
生きていくことは、いいことでしょう。

しかし、あたかも《それがすべて》のように生きて
いくと、思わぬ落とし穴にはまってしまいます。

本当は、通過駅のはずなのに、それを終着駅と
勘違いしてしまうと、通過すべき駅で留まり、
動けなくなってしまうのです。

人生かけてなすべき最終目的地は、生きがいレベルでは
ないのですが、この違いをハッキリ理解している人は
マレであり、ここに悲劇の根っこがあるのです。

言葉をかえていうと

「人生の目的」と「生きがい」は全く違うのですね。

このことについては、またの機会に詳しくお話したいと
思います。

生きがいとしていた母が……

Posted in 生きがいとは  by: まみ
2月 1st, 2010

興味深い体験談を耳にしましたので紹介したいと思います。

50代のお母さんの話でした。親鸞会親鸞聖人の教えを学ぶ友人の知り合いの方でした。

以下は、そのお母さんの話です。

 私は、気難しく、口やかましい父と、物静かな母との間に、3人きょうだいの2番目として生まれました。

 小さいころから体が弱く、病気ばかりしていて、小学校に入ってもオネショが治らず、母をとても困らせたそうです。

 いちばん、両親を悲しませたのは、7歳ごろから始まったチック症でした。この時の父の落胆ぶりと焦りはひどいものでしたが、

「私のほうがずっとつらいんだ」

と、心の中でいつも叫んでいました。

 父がそんなふうなので、姉や弟も一緒になって私をなじったり、いじめたりで大変でした。母が必死になって私をかばい続けてくれなかったら、泣いてばかりいた私は、どこかで死んでしまったかもしれません。母は、そのときの私にとって、一番の生きがいでした。

 しかし、そのチック症も、中学に入るころには自然と治っていて、母はとても喜んでくれました。私も本当によかったと思いました。

「これからは、部活動にも勉強にも頑張ろう」

と、趣味や生きがいを持つことに意欲的だったのもつかの間、今度は突然、神経症になってしまいました。

 あらゆることに強迫観念を抱き、対人恐怖、赤面恐怖などに、ただ、おびえ続けました。しかし、母にこれ以上は心配かけられず、1人で我慢を通したのです。

 やがて高校を卒業し、専門学校に通っている時に、電電公社(現・NTTグループ)の採用試験に合格し、あこがれの電話交換手になりました。

 その2年後、最愛の母と死別。ろくな看病もできぬまま、生きがいであった母を失い、心の支えをなくしてしまった私はすっかり自信を失い、仕事帰りに、神経科の病院へ飛び込むようにして診察を受けました。相当重いと思っていましたが、この時は、2、3カ月のカウンセリングで、元気に明るくなりました。

 その後、1年ほどして、周囲の勧めもあり、現在の夫と見合い結婚をしました。そして、夫とも相談のうえ、母を亡くして独り身となった父と同居することにしましたが、これが失敗の元でした。

 やがて父と夫との争いが始まり、間に立たされた私は、長男がおなかにいたのに、仕事と家事とトラブルの仲裁に、心身ともクタクタになっていきました。

「この世は地獄だ」

と、つくづく思いました。

 そんな中で、長男を出産し、

「これからは、この子を生き甲斐に、ゴタゴタは忘れて生きていこう」

と希望いっぱいで、産院から戻った時です。

 すっかり安心し切って、息子の足首に通してあった病院の名札を捨てたのが縁となって、強迫観念が再発したのです。不注意で、わが子である証をなくした、自責の念でした。

 以後、この病のために、息子を抱こうとしても、体が震えて抱けず、子も泣く、親も泣くの惨状となりました。母として、この苦しみは想像を絶するものでした。

 4、5年我慢しましたが、耐え切れず、また元の病院へ。今度は治療なしで、1冊の本を手渡されました。それは、ある精神科医の著書でした。

「これが分かれば、自分で治せる」

と言うので、ついでに根治療法の本も4、5冊買って帰り、深夜まで読みふけりました。

「仏教」とか「親鸞聖人」と書いてあったのを、よく覚えています。

 懸命に読んだかいあってか、病気の本態が分かり始め、それとともに元気が出て、だんだんと、長男を抱き締めてやることもできるようになりました。私には、これだけでも大変な喜びでした。

 長男から11年後、長女が生まれました。元気だった私は、今まで味わったことのないいとおしさを感じ、私の全愛情を注いで育てました。最高の生きがいでした。時折、暗く寂しい目で私たち母娘を見つめる長男に気づきましたが、私には、それどころではありませんでした。

 

続きは、次回で。

生きがいを求める理由

Posted in 生きがいとは  by: まみ
1月 6th, 2010

家族に囲まれていれば、それが生きがいとなって生きていけるとも限りません。

以前の資料になりますが、平成6年の国民生活白書を見ると、老人の自殺率がいちばん高いのは、3世代同居のケースでした。

独りぼっちの孤独も確かにつらいですが、一緒にいて、相手にされない孤独は、さらに耐えがたい苦しみが伴うようです。

学校でのいじめも、周囲からの無視がいちばんつらいといわれるのも、うなずけます。

「父帰る 茶の間の子供ら 部屋帰る」きくちカン

(第一生命「第14回私が選ぶサラリーマン川柳ベスト100」より)

こんな川柳は、どこにでもある家庭の風景を表わしているようで、思わず笑ってしまうのですが、仕事から帰ってきたお父さんが、安らぎを求めた子供たちから、疎まれ避けられるのは、何とも寂しい話です。

定年後は「ぬれ落ち葉」「産業廃棄物」などと揶揄され、邪魔者扱いされるに至っては悲劇というよりないでしょう。

家族とともにいても、孤独なのです。

仏教にこんな言葉があることを、知人に教えてもらいました。

独り生まれ、独り死に、独り去り、独り来る

お釈迦さまの言葉だそうです。

人は生まれた時が独りならば、死んでいく時も独り。生きている間も独りぼっち。

確かに、親や兄弟、友達や恋人などは、多くいても、心はどこか、寂しい、寂しいと震えているように思えます。

東京砂漠ともいわれるように、大勢に囲まれるほどむしろ、人は分かり合えず、孤独を感じるものなのかもしれません。

大学のコンパや会社の飲み会で、周りが盛り上がるほど、なぜか、自分だけ居場所がないと感じた経験はないでしょうか。

そんな孤独な心をまぎらわすために、私たちは、生きがいというものを求めずにはいられないのでしょう。

社会保障と生きがい

Posted in 生きがいとは  by: まみ
10月 30th, 2009

福祉が充実し、生活に不自由なければ、生きがいを持つことで老いの孤独は解消するか、考えてみましょう。

福祉国家として名高いのは、ノルウェーやスウェーデンなどの北欧諸国です。

国民の生活水準は、米英をしのぎ、社会保障制度と社会施設は完備して、ユリカゴから墓場まで、生活上の不安は何一つないといわれます。

ところが驚いたことに、これら北欧諸国は、自殺率が高く、しかも、高齢になるほど、その率は高くなると言います。

このようなことを知ると、福祉が行き届くことで、孤独の不安から解放されるとは、早計には言えないようです。

名作として知られる映画「ショーシャンクの空に」の中に、こんな場面があります。

終身刑で50年以上服役していた老人が、70歳を過ぎて、釈放されました。

鉄格子の扉から外の世界へ解放された老人は、どの町に行くのも、どの店に入るのも自由です。

だれに監視されることもありません。

しかも、社会復帰を援助するため、スーパーでの仕事や、アパートも、国から保証されていました。

それにもかかわらず老人は、数日後、アパートの天井からロープをつるし、自ら命を絶ったのです。

服役中は話をする仲間もあり、必要としてくれる人がありました。

しかし、壁の外では、家族も友達もいない、独りぼっちだったのです。

保証もあり、自由な生活が得られたとしても、孤独の寂しさを乗り越える力にはならないのでしょう。

生きる力は、社会制度がととのい、老いの不安が軽減されたからと言って、わきあがってくるものではないようです。

日本もまた、世界の国々と比較すれば、生きがいを持ち、自由に生きることの出来る国と言っていいのですが、自殺の多い現状は何を物語っているのか、よく考える必要があります。